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真田丸 豊臣秀吉の遺体は塩漬けに|豊国神社で発見された壷は秀吉か?

塩漬けにされてかめに納められた秀吉はどのように葬られたの?政治に翻弄された秀吉の墓所、豊国神社は秀吉を祀る神社です。


豊国神社
秀吉の遺体は大きなかめに入れられ塩漬けにされましたが、後世になって秀吉の遺体と思われる素焼きの壷が豊国神社の土の中から発見されます。


真田丸32話【応酬】
豊臣秀吉が他界しましたが、石田三成は朝鮮からすべての将兵が撤退するまで秀吉の死を伏せておくことにしました。


そして秀吉の遺体は保存のため、大きなかめに遺体を入れて塩づけにされました。

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秀吉の死は徳川家康に知られないように伏せられていましたが、この事を察知した家康は嫡男の秀忠を江戸にもどしました。


秀吉の死をきっかけに今後の政治をめぐって石田三成と徳川家康の主導権争いが激化します。


家康は多くの大名たちを宴席に招いて歓待します、伊達政宗をはじめ豪華な顔ぶれがそろい真田信幸は驚きます。


石田三成も負けずに宴席を開きますが、宇喜田秀家や小早川秀秋など数人のなじみの面子しか集まりませんでした。


秀吉の葬儀はなかなか行われません、そのことを正室の寧は嘆きますが、徳川家康は「秀吉の葬儀が遅れているのは三成がもたもたしているせいだ」と寧に告げ口をします。


石田三成が秀吉の死を伏せておこうとした理由は
・政敵の徳川家康に秀吉の死が知れるのを遅らせ政治の主導権をとりたかった
・朝鮮に秀吉の死が伝われば朝鮮と明軍の士気が上がり撤退が難しくなる

朝鮮の将兵が帰国するまでずっと葬儀を行わずおけの中ですから哀れです。

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秀吉を祀る豊国神社の歴史

京都市東山区大和大路正面茶屋町530

1598年9月18日に豊臣秀吉が亡くなりました、秀吉の死はしばらく秘密にされたため遺体は火葬されずに伏見城の一室に安置されました。


死去の翌年に東山阿弥陀ヶ峰に埋葬され、壮麗壮大な神社が建てられ秀吉を「豊国大明神」として祀られました。


秀吉の死が伏せられていた工事中は「大仏の鎮守社」と呼ばれていましたが、後に豊国神社と命名されました。


豊国神社は大阪夏の陣で豊臣家の滅亡後に徳川家康によって取り壊されました。


秀吉の正室の北政所(寧)の願いで社殿は残されましたが、朽ちはてるにまかされました。以降、江戸時代の約250年間は荒れ放題のまま放置されました。


明治元年になって明治天皇の勅命により再興を命じられます。


明治13年に社殿が方広寺の大仏殿の跡地に立てられ豊国神社は復興されました。




明治30年(1897年)豊国神社境外の阿弥陀ヶ峰山頂に五重塔が建てられます、翌年には太閤三百年祭りがとり行われこのときの工事で土の中から素焼きの壷が見つかり、中から秀吉と思われる遺体が発見されました。


遺体はその後丁重に葬られました。秀吉のお墓は豊国神社の東側の阿弥陀ヶ峰の中腹、豊国廟にあります。

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