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真田丸40話ネタバレ 幸村を呼んだのは小林顕作演じる明石全登

・オフロスキーが信繁(幸村)を大坂城に呼ぶ
・真田丸40話ネタバレとあらすじ
・明石全登の略歴

真田丸 キャスト 明石全登役 小林顕作が幸村を大坂城に呼んだよね

明石全登は読み方が難しい、どう呼べばいいの?

あかし てるずみ/ぜんとう/たけのり 

と呼ばれますが真田丸公式では(あかし てるずみ)と呼びます

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キャスト 小林顕作
生年月日1971年4月9日(45歳)
出身 東京都
身長 166 cm


テレビ出演
子供向け番組、Eテレ「みいつけた!」でピンクの牛柄のコスチュームでオフロスキーとして登場!


呼ばれていないのに「呼んだ?」のセリフで人気です。


真田丸40話ネタバレとあらすじ

九度山に片桐且元(小林隆)と明石全登(小林顕作)が訪ねてきました


且元が豊臣の窮状を訴え、徳川と戦うために信繁に助けを求めました。豊臣家は徳川と一戦を交える覚悟を決め、全国から浪人を集めています。


方広寺鐘銘事件が発生、豊臣秀頼が方広寺の大仏殿を再建して梵鐘の銘に気に入らない字があると家康がなんくせをつけてきました。


「国家安康」の文字が家康の「家」と「康」を切って呪うものだと言いがかりをつけられました。


釈明のため片桐且元が徳川を訪ねましたが、家康本人に会うことはできずに側近の家来から豊臣が大坂城から出るなどの厳しい条件を突きつけられます。


ところが大蔵卿も使者として家康に会いに大蔵卿は家康本人と会うことができました。


秀頼は2人の報告を聞いたところ、大蔵卿は「家康の機嫌が良かった」、且元は厳しい条件を突きつけられたと話したため、且元は徳川と示し合わせて豊臣を落としいれようとしていると疑われました。


こうして片桐且元は茶々(淀殿)の信頼を失い大坂城を去ることになりました。


石田三成が秀頼に贈った桃の苗木、真田信繁が大阪城の庭に植えて、片桐且元が世話を続けて立派な桃の木に育ちました。


且元は桃の木を眺め昔の事を思い出します、そして大坂城に別れを告げました。


且元がこれまでのいきさつを話し、豊臣を滅ぼそうとする徳川家康の魂胆を知って、信繁の心は揺れますが、九度山の穏やかな生活を大事にしたい信繁はいったん且元の誘いを断りました。


しかし、信繁の迷う姿にいらだった「きり」が自分が本当にしたいことをするうように信繁の背中を押しました。


信繁はこれまでみてきた人物や武将たちの生き様を思い、自分が今までの人生でなにも成していないことを振り返り、ついに大坂城に行く決心をしました。


信繁は名前も捨てる決心をしますが新しい名前が決まりません。信之が捨てさせられた「幸」の字をもらい、後の一文字が決まりません。


そこで息子の大助にクジを引かせますか(笑)

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明石全登の略歴


生まれ年は不明、明石景親の子供として生まれる、景親は備前(岡山)の保木城主でした。浦上宗景の家臣として仕えていましたが1575年に浦上氏が滅亡します。


このときに宇喜多家に寝返り、以後は宇喜多家に仕えます、1599年に宇喜多家でお家騒動が起き4人の家臣が出奔したため明石全登が家臣として取り仕切りました。


1600年の関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家に従って明石全登も出陣、まず7月から伏見城の攻略に参加、9月14日に杭瀬川の戦いで中村一栄を破って前哨戦に勝利しました。


本戦の関ヶ原の戦いでは福島正則を相手に宇喜多勢は善戦していましたが小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍は総崩れとなり主君の宇喜多秀家を守りながら殿群を勤めて大坂まで撤退します。


宇喜田氏の本拠地の岡山城まで戻りましたが城は荒らされていて秀家と連絡が取れなくなりました。


宇喜多秀家は八丈島に流されて宇喜多氏は没落、全登は浪人となりましたが黒田官兵衛に庇護されました。


黒田官兵衛の居城の中津城(大分県)にしばらく居たとされていますが黒田官兵衛が亡くなり息子の黒田長政が跡を継ぐとキリスト教の布教が禁止されました。


全登はキリスト教を捨てられないのでこの土地を去り大坂の役まで消息ははっきりしません。


大坂の役の直前、豊臣秀頼が徳川との戦の準備を始めると明石全登も参加します、徳川家康がキリスト教を禁止する政策を取ったため、家康を討って八丈島に流されている宇喜多秀家を解放するための参戦と考えられています。


秀頼の使者として九度山で謹慎中の真田信繁を訪ね徳川家康を討つため信繁に協力を求めました。真田信繁はこれを快諾して大坂城に入城します。


大坂夏の陣では、道明寺の戦いで明石全登は水野勝成、伊達政宗、神保相茂と交戦し相手を混乱させます。神保相茂と伊達政宗が同士討ちをします。


この戦いで後藤又兵衛が戦死、全登は負傷します。


天王寺・岡山の戦いで全登は300名を率いて小倉行春と共に決死隊として徳川家康本陣への突入を狙いますが天王寺口で友軍が壊滅したため戦場を離脱しました。


大阪落城後は行方知れずで戦死説と生存説があり、徳川実記、石川家中留書などでは水野勝成に仕える石川忠総に討たれたとあります。


しかし生存説も多く、山本豊久記では九州に逃れたとする説、戸川家譜「武家事紀」ではスペイン、ポルトガルに逃亡したとされています。


仙台の伊達政宗に保護されたとする説もあり、徳川幕府の追跡が厳しくなってからは秋田の津軽に移動し現在も秋田県の比内町に子孫と伝えられる一族がすんでいます。

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