テレビドラマふぁん

本能寺の変の後・明智光秀は生き延び家康に付き南光坊天海として参戦

真田丸では織田信長が亡くなり真田家は振り出しに戻りますが、その後の明智光秀と徳川家康にスポットをあてた「世界ふしぎ発見」というテレビ番組の検証では数々の謎が発掘されたのでした


本能寺の変が起こったその時
小姓が家康に知らせに来る
旗がのこされていました
桔梗は明智光秀の家紋です

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すぐに逃げる、本拠地へ


信長死す
これを聞いた家康は直ぐに
家康の生まれ故郷の岡崎を目指す


徳川四天王とは

・榊原康政・・・徳川参謀
・本多忠勝・・・戦国最強の武将
・井伊直政・・・戦国の赤鬼
・水野勝成・・・自由きまななかぶき者
 本多忠勝の娘小松姫
 服部半蔵正成


◆家康の生涯の出来事が展示されている◆
三河武士のやかた(家康の館)
無料で甲冑を体験できるコーナーがあります

◆服部半蔵が活躍した歴史的事件展示
家康生涯の最大の危機のひとつ
伊賀越え
本能寺の変の後、街道が封鎖されて険しい道しか残っていなかった
服部半蔵正成が伊賀者、甲賀者に声をかける、約200名

信長に招かれた家康は大阪の堺から愛知の岡崎まで京都、大阪を避けて移動する為に伊賀越えをしなければならなかった、しかしこれには身の危険が伴っていました


実は本能寺の変の1年前 家康と同盟していた信長は伊賀を攻撃して人口9万のうち3万にんを無差別にころし、強い
恨みを買っていました


でも服部家は父の代まで伊賀に住む忍者の頭領で人脈がありました

◆伊賀州忍者博物館
ここは今でも伊賀忍者の里です
部屋に様々のからくりがあり壁が地下道への入り口になっている


お仏壇の下をずーっと通ってお屋敷の下の空井戸100mの所へ続く部屋などがある
床の下には刀や手裏剣を隠してある
いざという時は直ぐに手裏剣を投げる


●元々忍者とは情報収集や後方撹乱、ゲリラ戦などを担当した陰の軍団
それを束ねていたのが服部半蔵
服部半蔵とはどんな人物何でしょうか?
東京四谷にある西念寺には服部半蔵正成の墓と半蔵が使った物があります

住職が見せてくれたのは服部半蔵が持っていた槍

2m53cmもあります
服部半蔵正成が家康から拝領した槍

安政の地震で先が63cmほど折れてしまった、実際は3mを越えていました
座ってインタヴューアーが持ち上げようとするが途中から持ちあげれない
バーベルの気合で上げるがかなり重い

槍は当時は武士の象徴である
家康から貰ったこの槍を生涯宝をしていたという

半蔵は武将というだけではなくやはり家康の秘密に大きく関わっていました
それが現在の皇居の半蔵門です

江戸時代5つの街道は全て日本橋を起点に作られていました
ところが唯一甲州街道だけが半蔵門から始まっていたというのだ

それは万一、敵方に江戸城が包囲された時に半蔵門が脱出口になり将軍は甲州街道を使って徳川の領地だった甲府

まで逃げる手はずになっていたのでした

だから家康は門の外に服部半蔵の屋敷を造らせていたのです
さらに甲州街道沿いの新宿や八王子にも追ってを食い止める為に半蔵の配下がいました


服部半蔵、この男は徳川家が最も危険な時に姿を現す陰の軍団の長だったのでした


万が一の脱出口の半蔵門には3つ穴が開いていると言われています
馬に乗ってそのまま隧道を通って来られるように
ここに抜け穴の言い伝えの理由があります


百人町には将軍を警護する特別な集団が暮らしていたのです
そのため町の入り口には有ることを禁止していました



鉄砲隊が駐在していました、当然火薬がありました
それで歩きタバコを禁止していました


皆中(みな当たる)百発百中皆中稲荷神社
現在は宝くじが当たるパワースポットになっています

◆南光坊天海の秘密!その正体とは
既に死んだとされた武将なのではないか?とされています

秀吉と天下を争い一旦は秀吉についた家康
しかし秀吉は慶長3年秀吉がこの世を去る
秀吉の死後、いよいよ家康の天下取りが始まります

関ヶ原で天下割れ目の合戦が繰り広がれます
関ヶ原合戦図屏風に様子が描かれています
(岐阜県関ヶ原町歴史民族資料館所蔵)

この屏風には謎の人物「南光坊」が描かれています
りっぱな鎧兜を身に着けています

南光坊天海(1536?~1643)家康が亡くなると遺体を日光に移し神様として祀ったお坊さんです
栃木県日光には南光坊のりっぱな銅像があります

南光坊天海の前半生は謎に包まれているが、関ヶ原の合戦の少し前に家康と出会い、家康のブレーンになったとも言われている

108歳という当時としては異常な長寿でした
関ヶ原合戦図屏風にはちゃんと天海

大阪城博物館には
天海所蔵と伝えられる立派な鎧があったりする
謎の多い人物である

天海の行った大きな仕事は家康の下で江戸の都市計画をおこなった事です

秀康の指示で関東に移った家康は城を作るパワースポットを天海に探させました
それが江戸、現在の東京です


天海は呪術て的力で江戸を守護しようとしました
その為に作られたのが上野の寛永寺(東叡山寛永寺(鬼門))と芝の増上寺(裏鬼門)


天海は京都が不吉な方角である鬼門を守るため比叡山に延暦寺を置いたのに習い
鬼門に寛永寺、裏鬼門には増上寺そ置いたのだという


天海の都市計画は今の東京にも生きているのです
謎の多い天海にはたくさん伝説がありますが
其の一つ、本能寺で信長を殺した明智光秀が姿を変えたというもの
其の根拠の一つがこの場所・明智平
天海はなんとこの場所を明智平と命名しました
理由を聞かれて明智の名前を残す為と答えたそうです、なんともはや不思議です


さらに家康を祀った日光東照宮には光秀の家の家紋の桔梗と言われる桔梗の家紋が彫られています


しかも天海が家康の側近になった3代将軍の乳母、春日局をはじめとする光秀ゆかりの人物が幕府中枢に入って居るのです
果たして天海は明智光秀だったのでしょうか?

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本能寺で信長を倒した明智光秀は思いもよらぬ速さで引き返して来た秀吉に敗れ逃走の途中、落武者狩りに遭って死んだとされています

ところが秀吉のところに届けられた首は腐敗していて見分けがつかなかったという
ここから首は影武者のものでは?という疑問が起こりました

さらに光秀ゆかりの岐阜県山県市には明智光秀のものとされる墓があり驚くべき言い伝えが残っています

土地の言い伝えでは光秀はここに逃れて身を隠していて関ヶ原の戦いの前に家康に味方すると言って出て行ったという
秀光の墓を保存する荒深勝治さんのコメント
最終的に徳川の陣について関ヶ原の合戦の応援に行く途中
藪川というかわの増水で馬もろともで溺死した

墓を掘ると確かに何か埋めた跡があるように河原の石が一杯敷いてあります、上のは何もない
光秀は関ヶ原の戦いに加わる途中に川で遭難して河原の石だけが帰ってきた

一方天海は関ヶ原の戦いの直前、家康と知り合ったとも言われ、僧侶なのに家康の本陣に武将の姿で描かれているなんとも不思議な話である


さらにリポーターは驚く物を発見しました
それはだんじりで知られる岸和田市
岸和田市にあるお寺、本徳寺です
ここは日本で唯一明智光秀の肖像画が有ることで知られるお寺です
子供の頃、教科書で見ていた明智光秀の本物の肖像画ですね
感激するリポーター

実はこのお寺の初代南国梵きという、この方明智光秀の息子という説があります
南国梵きは明智光秀の嫡男ではないかという噂や話があります

現在のお寺の住職は南国梵き様は明智光秀の嫡男か長男か次男かやはり息子さんです
この掛け軸に残す明智光秀の肖像画は息子さんが書かせたのでしょうか?
慶長18年(1613年)本能寺の変の31年後、しかもこの肖像画には明智光秀の生存説を意味する謎めいた文字が書かれているという


輝雲道琇という光秀の戒名には光と秀という文字が隠されている
輝雲道琇と書いてある文章の中に惜しいかな百年の身を保つに不意の真形図画の中
(ふつうやったら100年生きられるやろう、なのに級にこの絵の形の中に収まってしまったとあります)


さらに驚くのはその先に書かれている文言です
「放下し去る」・・捨て去って出て行ったという意味です
この謎めいた肖像画には死んだかのように姿を隠していた光秀が再びそのその立場を捨て去って出て行ったとあるのです

捨て去った、出て行ったとなるとこの絵の中から出て行く訳には行かないはず
だから生きておられたとかんがえられる
首実検もされたと言われるが、代替がいて本人さんは
のちの天海僧正がそうだったのでは無いかと思われる


本徳寺肖像画の謎めいた言葉
明智平の名の謎
東照宮に彫られている桔梗のようなもんよう
天海、家康、光秀謎が多すぎる

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