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歴史秘話ヒストリア【本能寺の変】信長の3日間・女中が見た最後の姿言葉とは

2016年2月6日放送分・NHK大河ドラマ「真田丸」では語られない織田信長【本能寺の変】をすぐそばで目撃した人の証言や真相と知られざる逸話、明智光秀にやられるまでと秀吉の暗躍ぶりと信長の人となりに触れ、自らを第六天魔王 信長(欲望の魔王)と名乗ったとか、変人とか魔王とか言われていた事を少し見直す事ができました



本能寺の変
この大事件には信長にまつわる知られざる逸話が数多くあります
信長死す、大事件の現場に居合わせた人々の大事件の舞台裏の秘められたエピソードの数々


・本能寺の変の前、京都の公家が見た信長の魔王の顔
・その直後、身近な者が見た昼間とは正反対の顔とは
・本能寺の変当日複数の側近達の信長への切ない思いとは
・信長最後の姿を見た女中が与えられた最後のメッセージとは
・こつ然と消えた信長の遺体、謎に包まれたその存在には天下の行方ががかかっていました
・全てを目撃したのは一人の僧侶、遺体を巡り豊臣秀吉との間に繰り広げられたせめぎ合いとは


信長秘蔵の茶器として現代も伝わる
藤四郎丸茶入(とうしろうまるちゃいれ)
表面の一部の色が変わっているのは本能寺の変の火災に巻き込まれた事を物語っています
本能寺の変の前日、信長はこの茶器を使って都を驚かせるイベントを開いていました
京都の名だたる公家達は、信長の力強さ、恐ろしさを思い知らされます
常識を破り続けた織田信長が人生の最後を飾る桁外れのパフォーマンスです


天正10年(1582年)始め織田信長(49歳)
初陣依頼35年戦い続け、ついに天下取りに王手をかけようとしていました
初めは尾張一国、そこから始め次々と敵を攻め滅ぼしながら信長は日本の中央部を手中に治めました


本能寺の変の2ヶ月前
静岡県駿河の国に寄り道しています
静岡県富士宮市宮町・・・立ち寄った場所はココ、静かな住宅街にその足跡が残っています
信長が座ったと言われる石・・・ここから眺めた信長がお目当ての物は、富士山です
その当時も日本一の山として皆の憧れです、富士山をみたのは初めて
「誠に稀有の名山なり」と唸ったそうです
天下統一も目前にして寄り道してまで見た富士山

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本能寺の変2日前:5月29日
中国地方を制圧する為、信長は本拠地安土を出陣します
この一報に京都は慌ただしくなります

公家たちが大勢、都から一山越えた山科まで信長をわざわざ信長を出迎えに来たのです
いずれも大臣級のそうそうたる顔ぶれ
公家たちの信長への気の使いようはただならぬものがありました

その場にいた公家は日記に不満を記している
数刻  待 (公家・吉田兼見の日記より)
何時間も待たされた

やがて待ちに待った信長の使いが来ました
やっと信長と対面かと思いきや、意外な事を言われます
使いの者:「出迎えは無用との仰せにございます」
思いもよらぬ織田信長の対応に公家達は驚きを隠せません
長々と待たせた挙句、会う気は無いという無礼な仕打ち

公家は直ぐに帰った
急 帰る(公家・吉田兼見の日記より)
とは言え織田信長相手に抗議する訳にもいきません
公家は元来た道を引き返します

織田信長は公家が帰るのを見計らうかのように京都での定宿、本能寺に入りました
なぜ?織田信長は公家にこのような態度を取ったのでしょうか?
そこには織田信長ならではの狙いがあったのです

明けて本能寺の変の前日:6月1日
昨日返された公家は今度は織田信長から本能寺に呼び出されました

京都の公家が見た信長は魔王の顔を持ちます
そこで公家たちは度肝を抜かれる

藤四郎丸茶入れ
(この時の本能寺での出来事を目撃した物です・一部色が変わっているのは本能寺の変で火災に巻き込まれた跡だ

と言われています)
鎌倉末期の作品:有力な大名達を経て信長が手に入れた破格の一品
安土より運ばせた茶器にござる
どれも天下の名品揃い

信長は自慢の茶器を38個も持ち込み公家に披露しました
ある茶器は現在のお金で16億円
ある茶器は当時の国一つと引換たと言われる
信長は持ち主の大名を打ち負かして奪い取ったり財力にものを言わせて強引に買い取ったり
欲しいと思った名品は手段を選ず日本中からかき集めました
高価な茶器の背後に見え隠れする織田信長の強大な力に公家は圧倒されました

自分が衰えた室町幕府に変わって天下を取るんだということ
これだけ集められたんだということ
天下の名品を集めたんだ、お前らマネができないだろうというジェスチャー

この世の全ては俺の物・織田信長ならではの強烈なアピールです
これが信長、人生最後のパフォーマンスになりました

本能寺の変直前:6月1日夜
信長が開いた宴では昼間(魔王の顔)公家に見せた物とは違う意外な一面の顔を見せる
ここに居るのは小姓など戦働きよりも身の回りの世話をする信長お気に入りの家臣達
彼らは信長に意外な言葉を掛けられました

喜  果報    
憐憫       
万代長久しい 栄耀
憐愍      詞(居合わせた小姓の日記より) 

わしは心のこりない程、幸運に恵まれて喜ばしい限りじゃ
永久に続くであろう栄華も極めた
これまで皆には苦労を掛けた事も多かったのう


家臣:もったいないお言葉にございます
信長は掛けたのは自分に尽くしてくれた家臣一人ひとりにたいする感謝の言葉でした
政治や軍事とは無縁の身近な側近だけが垣間見た信長の知られざる素顔でした


その頃、都近くでは織田信長が信頼していたはずの家臣、明智光秀が出陣しようとしました
「敵は本能寺にあり 行け!」
信長に運命の時が近づいていました


現在本能寺は京都市内の繁華街にありますがここは本能寺の変で燃え落ちた5年後に移転されました
事件当時は現在の場所から西へ1kmの所にありました
今は住宅街になっている本能寺跡地で2007年、発掘調査が行われました


その成果は当時の事件の本能寺の様子を私達に語ってくれます
敷地の周りから見つかったのは堀の跡
周囲の堀は幅が4m、深さ1.5mと推定されます
当時の寺としては大きな規模です


境内も石垣造りの堀で区画割りされた構造になっている事もわかりました
信長が宿として愛用した本能寺は、大きな堀で仕切られ堅い守りが施されたお寺だったのです

また、敷地の広い範囲からは、赤く変色した瓦や壁土が見つかりました
これは高温の炎で熱せられたことを示しています
燃え盛る本能寺と炎の中に立つ信長の姿が目に浮かびます

京都市重要文化財研究所:山本雅和さんの証言
焼けた瓦とか壁土が境内の東側あるいわ、中央部付近、各所で出ているので本能寺の変ががかなりの規模の火災を伴っていおり本能寺が焼け落ちたということは調査成果から確実になりました

発掘された品々はまさに本能寺の変を現場で目撃したもの
事件の様子を伝えてくれる声無き証言者なんですね


本能寺の変は信長の最後との名場面としてさまざまな見せ場が描かれます
しかし混乱を極めた本能寺の奥で実際に何が起こったのかは謎に包まれています

信長の近くにいて戦いを生き延びて証言を残した人は極わずか
信長の姿を最後に目撃した女中は伝えています

信長最後のメッセージ
魔王を名乗った男らしからぬ意外な言葉だったのです

本能寺:6月2日未明
およそ1万人の明智光秀軍が信長の首を狙い本能寺に押し寄せました
たちまち激戦の火蓋が切られます・・・と思いでしょうが・・・

明智軍の兵士・本城惣右衛門の覚書には意外な様子が記されています
門はひらいてねすめほどなる物なく
をもてへはいり候へば
ひろまにも一人も人なく候

注釈
門は開いており、ねずみ一匹さえもいなかった
中に入ってみた、広間にも誰一人いなかった

実は信長の精鋭部隊は別の場所に別れて泊まり本能寺には信長の小姓などわずか百人ほど世紀の大事件は静かに幕

を開けたのです


信長の正式記録【信長公記】(家臣・太田牛一が信長の人生をまとめたもの)
関係者の聞き書きを集めまとめたものです
本能寺の戦いについては生き延びた人の証言を元に書かれています

本能寺取巻 勢衆乱れ入る

攻め込んで来た明智光秀の大軍
これを信長の僅かな側近達が迎え撃ちます

光秀の謀反を知った信長が呟くのはあの名セリフ
是非に及ばず

注釈:やむを得ない
信長が覚悟を決めた一言です

ところが【信長公記】によると
この言葉の前にこんな記述がありました

上様はその場限りのけんかを下々の者がしでかしたものと思われた

最初信長は謀反とは思わず自分が攻撃されているとすら思っていなかったのです


静岡大学名誉教授:小和田哲男さんの証言
これは信長の油断ですよ
本能寺には信長の近習が百人しかいない
襲われるなんて全く予想していない、敵と戦うなんて考えてない証拠なんです


ですから、何も警備してないので
スルスルと近づいて来た明智軍は抵抗なく本能寺に入れたのは事実
全くの不意打ちだった


本能寺のあちこちで激しさを増す戦い
およそ100倍もの敵に信長勢はまさに多勢に無勢です

そんな中、信長が自らが果敢に戦う姿が目撃されています
【信長公記】によると
信長初めには御弓二つ、三つ遊ばし候
御弓の弦切 其後 御槍にて御ん戦いなされた


絶望的な戦いの中信長は決してあきらめようとしなかった

戦場には信長の側に仕える側近達がいました
いずれも思わぬ理由で引き立てられた者ばかりで

信長第一の側近
森乱丸(蘭丸・成利)・・・わずか15歳で大抜擢された有能な事務官でした
乱丸の父は(森可成)信長に仕え、桶狭間など大事な戦に参加、最後は信長の盾となって討ち死にしている
信長はそんな森家の忠義に応えるため、乱丸をはじめ子供たちを小姓に抜擢して優遇しました
乱丸にとって信長は幼い自分に破格の恩恵と期待を掛けてくれた大切な人だったのです
やはり最後は父親と同じく信長の盾となって討ち死にします

伴 正林(ともしょうりん)・・・怪力自慢
なんと相撲の大会がきっかけで信長の側近に取り立てられた異色の男です
実は信長は年に何度も相撲大会を開くほどの相撲好き
そこで伴正林はみごたえのある取り組みを披露し信長に気に入られました
まさに信長の趣味のおかげで伴正林の運命は切り開かれたのです
主君を守り通そうとして散る


意外な家臣が
弥助(やすけ)・・黒人の側近(元イタリア人宣教師が連れてきた奴隷)
本能寺の変の1年前「十人力」と賞された力が気に入られ信長の側近になる
信長がどれほど弥助を気に入っていたか日本に来ていた宣教師の報告書に残っています
信長は彼を厚く庇護しおり、噂では彼を殿にするだろうとの事だ

信長の一存により人生が大きく変わった男たち
思わぬ幸運に恵まれたはずの彼らの運命は本能寺の変で一転激しく翻弄されます


弥助(やすけ)は消息不明、一説では光秀に捕まった後、解き放たれたとも言われる
伴正林(ともしょうりん)仲間と厩に立て籠り、一気に攻めて出た所を討ち取られました

事務官・森乱(丸)は亡き父と同じく信長の盾になりました
信長の部屋近くで主君を守り通そうとして18歳の命を散らしました

信長は自分の為に戦い散って逝った家臣達を見届けると奥へと一人姿を消しました
やがて本能寺は紅連の炎に包まれます


炎の中逃げ遅れた女中達が信長を目撃しています


主(あるじ)信長と供に死のう
死を覚悟する女中たちに信長は語りかけました
女は来るしからず 急ぎまかり出でよ


注釈:女はここで死ぬ必要はない急いで逃げるのだ
そういうと信長は去って行きました
「生き延びよ」
これが信長がこの世に残した最後のメッセージでした
記録に残る信長の姿はここまでです


信長は炎の中自ら命を断ったと考えられています


最後まで諦めない戦死、命を捨てるなという優しさ
織田信長はさまざまな顔をみせながら
炎の中に消えて逝ったのです

京都の本能寺で亡くなった織田信長ですが其の影響力の大きさの為か信長を祀る廟所やお墓は各地に残されてい

ます

其の数は主だったものだけでも全国的に20箇所

これらの中にはなんと信長の遺体を埋葬したという言い伝えが残る場所もあります
其の一つが富士宮市・西山本門寺(にしやほんもんじ)

樹齢500年の柊の根本に信長の首が埋められて入るといいます
信長の首塚
首が明智側に渡る事を恐れた家臣の一人が300km以上離れたこの地まではるばる運んできたというが・・・
実際のところ信長の遺体のゆくえについては確実な証拠がなく今も謎に包まれています


京都では信長の遺体を目撃したと言うお坊さんの記録が残っています
天下を左右をする信長の遺体ミステリアスな話です
京都市上京区にある阿弥陀寺(あみだじ)

ここに信長の遺体を巡る謎を記した巻物が残されています
驚きの記録です

ひそかに御葬礼
御墓を築き

注釈:信長を密かに弔った
墓に埋葬したという記録
一体どういうことなのでしょう?

鍵を握るのはかつてこの寺に居た一人の僧侶
天下取りの野望の為、信長の死を利用しようとする秀吉
そんな権力者豊臣秀吉にあくまで抵抗する僧侶

あるお寺の記録が物語る信長の遺体を巡る鬩ぎ合いその謎に迫ります
僧侶は見た信長の遺体の謎

・襲撃から数時間後:6月2日

明智光秀の襲撃後、数時間で本能寺は完全に焼け落ちました

信長を討ち取りクーデターを成功させた光秀その顔は晴れません
それには理由があります
【信長公記】によると
御くびをもとめ
事のほかたずねさせ

申し上げます、信長の首未だに見つからずとの事にございまする
もっとよう探せ
なんとしてでも信長の首級を上げるのじゃこれは厳命ぞ!


秀光は信長の遺体を探していました
信長の死を確認し、世に広めることは天下取りに絶対必要なのです
しかし、信長の遺体は本能寺の焼け跡から見つけられなかったのです

その頃信長の遺体が見つかっていない事で運がめぐって来た武将がいました
遠く中国地方で戦っていた羽柴秀吉
秀吉は本能寺での信長の死を聞くとすぐさま大勢の武将に手紙を書きます

その一つ秀吉が明智光秀配下の武将に宛てた手紙です
上様(信長様)は無事に切り抜けられて今は近江国にいらっしゃる


秀吉はクーデターは失敗したと噂を広め、明智光秀に味方しないように釘を刺した

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本能寺の変から11日後の6月13日
秀吉と光秀は京都の入り口、山崎で激突
手紙の効果は絶大で、山崎の戦いで多くの武将が寝返り秀吉は圧倒的な勝利を収めました
信長の遺体が行方不明という状態をいち早く利用した秀吉の作戦勝ちでした

ところが、信長の遺体が見つからない事で秀吉自身が苦しむことになります
秀吉は信長の後継者の座をめぐって信長の息子たちや柴田勝家などライバルがまだ大勢いました
秀吉が信長の跡を継ぐ事を天下に示すには彼らに先んじて主君信長の遺体を探しだし自ら葬儀を取り仕切る事が重要でした

そこへ信じられない知らせが入ります
ある寺がすでに信長の葬儀を行ったとの情報です
それが現在の意京都市上京区にある阿弥陀寺です

遺体亡き信長の葬儀が行われたとはどういう事か?
それを示す記録がのこされています
阿弥陀寺に伝わる【信長公阿弥陀寺由緒記録】

江戸時代に書かれた古文書には信長の遺体の謎とその顛末について記されています
御骨をとりあつめ衣につつみ
ひそかに御葬礼
青玉上人


注釈:本能寺で亡くなった信長の遺体は寺の住職が引き取った
そしてひそかに、ここ阿弥陀寺で葬儀を行った
その住職の名は青玉上人と言います


本能寺の変さなか:6月2日
記録によると始まりは、本能寺の変のさなかのこと
【信長公阿弥陀寺由緒記録】より
青玉上人聞きつけ
本能寺へかけつけ
表門合壁は軍勢

注釈:しらせを聞いた青玉は信長を助けようと20人ほどの僧侶と本能寺へ駆けつけました
表門は明智勢でうめつくされ未だ激しい戦いが続いている
青玉は本能寺へ侵入しましたが既に信長は自害した後でした


青玉は明智軍に遺体が渡る事を防ぐ為信長の遺体を焼き阿弥陀寺で手厚く弔ったという

阿弥陀寺は以前から織田家によって保護され繋がりがありました
でも青玉がこれほどまでの危険を冒して信長の遺体を守ろうとしたのは更に40年もの昔・・・

40年前の深い因縁にまで遡ります
それは青玉がまだ母親のお腹にいた頃、織田家支配の尾張で体調崩し倒れていた母親を助けてくれたのが信長の兄でした
しかし母親は亡くなり、青玉は点が孤独の身になりました
そんな青玉は織田家の人々にそだてられました
青玉は織田家の庇護のもと19歳の若さで阿弥陀寺の住職になりました
青玉が信長の遺体を守ろうとしたのはそんな織田家と信長に厚いに恩義を感じていたからです

本能寺の変からしばらくした後羽柴秀吉が阿弥陀寺を訪ねました
青玉ににある申し出を行いました
【信長公阿弥陀寺由緒記録】より
あるべき旨仰出され候

御受け申されず候

注釈:亡き信長様の葬儀を盛大に行いたいを思っている
その葬儀ぜひこの阿弥陀寺にて執り行いたいのじゃ


秀吉が申し出る、信長の眠る阿弥陀寺で家臣である秀吉自身が信長の葬儀を改めて行いたい
ところが
せっかくではございますが、信長様の供養は十分行いました、これ以上のご供養はご無用かと
秀吉の申し出を青玉はきっぱりと断ったのです

阿弥陀寺現住職:若山さんのコメント
秀吉さんがいくら言うても、もう私はちゃんとしたからああたが出てくる話では無いと
それはもう直接、信長公から信頼を受けていたからこそ言える言葉では無いかなぁと思います
秀吉はそれを利用したかったという事、しかしそれは違うぞというのは青玉上人の思いであったと存じます

信長の信頼を受けていたからこそ秀吉の申し出を受けなかった青玉上人

諦めきれない秀吉はその後2度に渡って阿弥陀寺にお金の援助や領地を与える事を申し出て青玉を説得します

それでも青玉は葬儀を決して認めなかったと阿弥陀寺の記録は語っています

本能寺の変から4ヶ月後:10月11日
秀吉は信長の子を立てて信長の葬儀を実質的に主催しました

阿弥陀寺とは別の寺で行いました場所は大徳寺(京都市北区)鎌倉時代依頼の伝統を持ち日本有数の名刹です
葬儀は7日間に渡りおこなわれました
京都中から数千人の僧侶を集めた空前の規模です

ところで信長の遺体の無い状態でどうやって葬儀を実現したのでしょうか?
秀吉苦肉の策が京都市北区の総見院に残されています
織田信長の木造です
葬儀にあたり信長の遺体に見立てて木造を2つ造り同じ木造をのぶながの遺体に見立てて焼き埋葬しましたたとえ遺体が無くても葬儀を主催する事こそ重要、秀吉は信長の後継者に近づきます

謎に包まれた信長の遺体
今に残る逸話の数々は死して尚も天下を動かした信長の大きさと
人々の様々な想いを伺わせます

【信長公阿弥陀寺由緒記録】より
この阿弥陀寺の記録には秀吉と阿弥陀寺の鬩ぎ合いについて

後日談が記されています
信長の遺体を守ったとされる青玉上人は
青玉は本能寺の変の3年後この世を去ります

するとそれを待っていたかのように秀吉が動きます
阿弥陀寺は移転を命じられ寺の大きさも4分の1に削られてしまいます


京都の人々は参拝をはばかるようになり寺は困窮を極めました
そんな阿弥陀寺に救いの手を差し伸べたのが本能寺で信長と一緒に亡くなった森乱丸の一族でした

森家は秀吉の天下をはばかる事無く毎年銀や布などを寄進しました
信長と乱丸が眠る寺を支え続けたといいます

信長に恩恵を受けた縁の人々による困ったときの助け合いそんなところからも意外と人情味のある信長の素顔が伺えるのかもしれません

阿弥陀寺には織田信長の墓
森蘭丸の墓があります

最後に人々にあまりにも大きな影響と記憶を残しこの世を去った信長はその後さまざまなな印象で語り継がれます
時代とともに変わりゆくそんな秘話をどうぞ

本能寺の変が起こる7年ほど前、天下人を目指す信長の意外な素顔が記録に残されています

ある村を通りかかった時、信長は家も無く身体が不自由な男をみかけました
信長は木綿20反自ら持って来て周りの村人にこう言いました
「これを売って彼に小屋を作ってやり飢えないように食べ物を分け与えてくれれば自分はとても嬉しい」
こうした信長の優しい一面も後の世には天下を狙った冷酷な魔王の顔に覆い隠されていきました

●明治2年
戦国乱世を収めた功績が評価され信長を祀る
建熱神社(けんくんじんじゃ・京都市北区)が創設されます

信長は魔王から神へと変わりました

今ここには大勢に人が訪れ
斬新な発想と行動力で時代を変えた英雄、信長に想いをはせます

建熱神社宮司:松原宏さんのコメント
信長が理想に燃えてこういう日本を作りたいという事に一生懸命なられたでしょ
人生の全て50年の一生燃え尽きた
そこじゃないでしょうか?
神様を拝むのじゃなくて人間信長が大好きだと言うことでね


船岡大祭(信長の祭礼・毎年10月)の様子がTVで流れる

激しく残酷な魔王として
乱世を収めた英雄として
人々を愛した英雄として

人間として様々な顔を見せながら本能寺の炎の中に消えて逝った織田信長
その底知れぬ奥深さは時代を越えて人々の心を捉え続けています

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