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【本能寺の変】明智光秀が大事にしたのが家族・悲劇の父娘の運命

NHK大河ドラマ「真田丸」では語られない明智光秀の本能寺の変のあとの行動や歴史秘話ヒストリア・では明智光秀の家族にスポットが当てられています


・日本史上最大の事件・本能寺の変首謀者・・明智光秀
・織田信長に見出され低い身分だった明智光秀
・裏切りの陰に一人に父の苦悩があった
・幼い嫡男十五郎父子の切ない物語
・信長のリストラ・・・年老いた家臣を次々とリストラ追放
・父光秀の決断は娘達の人生を激変させる
・ライバル秀吉の予想外の行動
・光秀の秘策は古墳なのか?
・心優しき男の戦国史上最大の反逆者

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京都府福知山市
戦国時代明智光秀が治めてきました
光秀を祀った神社がある
町をもり立てた恩人だと夫婦でイメージキャラクにもなっている 
治水工事で洪水から人々を救った英雄です
天下の謀反人でありながら今なお各地で慕われ続けている光秀


明智光秀【本能寺への道】父としての苦悩
明智光秀は美濃国(現在の岐阜県)で生まれたと考言われている
元々身分が低い武士で40代半ばまで食事にも困る暮らしぶりでした
朝夕ノ飯食サへ乏カリシ【当代記】より
注釈:朝夕の食事にさえ不自由する暮らしでした


そんな光秀を支えたのは妻ひろこでした
妻ひろこは女の命である髪を切って売り秀光を支えました
一方光秀も妻ひろこが病気になった時には治癒を願い神社に通ったと伝えられています
貧しいながら仲睦まじい夫婦でした


光秀の運が開けるきっかけとなったのが織田信長との出会い
秀光は天下統一を目指し京への上洛を目指す信長に見出され仕える事になりました
人生経験豊富な光秀は信長に朝廷や寺社との交渉役を任され実力を認められます



信長と出会って僅か数年で織田家の出世頭の秀吉と同じ立場にまで大きく出世しました
良い主君に出会い生活が安定した頃、妻ひろことの間に次々と子供を授かります
いずれも女の子やっと手に入れたささやかな幸せ
活発だった女の子が玉子、後に細川ガラシャと言われ戦国屈指の美女になる少女でした


秀光は信長に軍事的な才能を認められ、信長の下各地の戦いで活躍します
そんなある日光秀は信長の非常な一面を知ることになりました
比叡山を焼き討ちにせい


かの山の坊主どもを根絶やしにするのじゃ
光秀が受けた命令は800年に渡って人々から信仰を集めてきた比叡山延暦寺の焼き打ち


信長が敵対する大名を比叡山が匿った事への報復措置でした
この時信長は延暦寺だけでなく麓の村まで焼き払うよう光秀に指示をします


光秀は必死に信長を諌めますが一切聞き入れてもらえません
くどいわ! 光秀!
はははははぁ~

やむなく比叡山と麓の村人達を襲撃、焼き打ちの死者は数千人に上りそのほとんどが無抵抗な

人々でした


比叡山の麓の町坂本(現在の滋賀県大津市坂本)秀光は焼き打ちの後この村を治める事に


信長の命とはいえ多くの罪の無い人を殺めた光秀
復興に取り組む中で度々この寺を訪れています


●西教寺 社会部主事:中島敬瑞(男性)さんのコメント
鉦の音が響く境内
作家の三浦綾子さんが小説で書かれているんですが
光秀公が娘とこの寺を訪れて自分の心はこの鉦(かね)の音のように澄んでいるのだろうかと

娘に問われるんですね


光秀公は焼き打ちの後、何度も西教寺に来られております
本当にそんな事もあったんではないかなと思います
そういう時代だからこそ、自分の心を問いただしておられたのではないかと感じております

時に迷いながらも懸命に信長を支えた光秀その努力が認められ城持ち大名に出世します
光秀が出世すると娘達に次々と良い縁談が舞い込みます


長女の嫁ぎ先は摂津の大名荒木村重の嫡男
末娘は信長のおい津田信澄のもとに
玉子は主君信長の仲人で後に丹後の大名になる細川忠興に嫁ぎました


光秀は信長へ感謝の気持ちを率直に書き残しています
私は瓦礫(がれき)のような取るに足りない者でしたが
信長様に莫大(ばくだい)な軍勢を率いる身にまで取り立てて頂いた
粉骨砕身努力すれば信長様は必ずそれを認めてくださる


実はこの文章が書かれたのは【本能寺の変】のまさに一年前
天正九年六月二日

これほど信長を慕っていたのになぜ裏切ったのか
なぜ【本能寺の変】を起こしたのか?

近年の研究で謀反のきっかけは天下統一を目前にした信長の急激な組織改編になると考えられ

ている

●大山崎町歴史資料館 館長:福島克彦さんのコメント
織田信長というのはだんだん織田一門というか息子の代にどう継がせるかということを
考えるような時代になってきていましたので、そうすると光秀などのような信長の武将と言わ

れる人達は、その後どういうような待遇を受けるのか多分不安な部分があったんではないかと

思います


◆【本能寺の変】の数年前から信長は家臣の大規模なリストラを開始しました
家臣から領地やポストを没収する一方で息子たちに領地やポスト分け与えていました

本能寺の変の2年前、信長は自分を青年時代から支えてくれた家老たちを相次いで追放しまし



その解任理由は
目立った働きが一度もない【信長公記】より

近頃は目立った働きもなく不甲斐ないとの内容

次の時代を見据えて家臣の整理を始めた信長そのその非情さは家臣の恐れと不安を抱かせまし



その頃各地で家臣の謀反が続発しました
光秀の長女の嫁ぎ先だった荒木村重も含まれていました
いずれも信長の武力で攻め滅ぼされています

●当時の史料によると光秀は、他の武将以上に追い詰められた状態にありました
それは年齢

【当代記】によると本能寺の変の時67歳
戦国武将にしては相当な高齢です

光秀は老人なので遠征の際は信長のいる本陣に近い宿舎を割当てもらっていた
更に老いからくる体調不良から思うような働きができない事も

本能寺の変の数年前には生死の境を彷徨うほどの大病を患っていた
しかし跡継ぎの十五郎はまだ元服前の少年でした


自分が地位を追われたり、死んだりした場合、息子と一族の未来に不安が・・
実績の無い十五郎を取り立てる保証はありません
息子と一族に大きな不安を抱いていた光秀
そんな時、思わぬ機会が訪れます


◆天正10年6月
信長軍の主な武将は全国の有力大名とは戦う為各地に散らばっていました
光秀は1万3千の兵を率いて京都に近い丹波から出発しようとしていました

そんな折、京都に来た織田信長は無防備な状態でした
用心深い信長の一瞬の隙


●この偶然を好機と見て光秀が起こしたのが
天正10年6月2日未明
本能寺に泊まっていた信長を奇襲

光秀は逃亡のいとまを与えず2時間で信長を打ち取りました
↓本能寺の変までの信長の3日間と頃場と心境を知りたい
信長本能寺の変までの3日間と最後の姿や言葉とは




●一人の父の決断から始まった本能寺の変
しかし光秀の娘達の運命を大きく変えていく事になるのです


光秀が襲った本能寺、現在は別の場所に移されています
本能寺は現在、石碑が立っているだけです
近年の発掘調査で当時の様子が明らかになってきました


2007年の発掘調査で焼けた瓦と供に見つかった堅牢な石垣の遺構でした
当時の本能寺は四方に堀をめぐらせ、さらに掘った
本能寺は寺というより城のような造りでした土を盛り上げて造った土塁があり人の出入りを監視する木戸が設けられていました


本能寺の変の2年前、本能寺を京都での宿舎にするため入念な工事を命じていました
本能寺は寺というよりも小さな城のような造りだったのです


この事から光秀による本能寺の変は単に寝込みを襲うようなものでは無く本当の強い覚悟を持って行われた事が伺えます


◆京都府長岡京市にある青龍寺城
ここに光秀の娘玉子、後の細川ガラシャの像が建てられています
戦国屈指の美女に成長し夫に愛されて幸せな暮らしを送っていた玉子


天正10年こんな手紙を父光秀に送っています
父上の腹黒い行いの為に私は夫に捨てられました

これが書かれたのは天王寺の変の直後
一体玉子の身に何が起こったのでしょう

一族の未来を賭けて立った天下の反逆者明智光秀
娘達は父の謀反の恐ろしい代償を支払う事になるのです


●近江の国(現在に滋賀県近江八幡市)安土山
信長の居城安土城が置かれていた場所です
信長を討った後に真っ先に押さえたのは安土城でした

明智光秀は自分が日本の王となれるか試みようとしていた
本能寺の変の後光秀は地盤固めの動きは素早いものでした


安土城占領後の2人後光秀は朝廷の使者を迎えました
天皇の権威を背景に信長に代わって天下を治める事を示しました


●光秀は更に織田家の有力武将が各地から戻ってくる前に近畿の重要拠点を次々と占領しまし


若狭や紀伊、大和の武将も味方につけ近畿の制圧を確実にしていました


この時光秀が頼りにしていたのが娘達の嫁ぎ先です
丹後の細川家には玉子が、大阪の津田信澄には末娘が嫁いでいたのでどちらも有力武将で、娘達の嫁ぎ先は心強い味方になると思われていました


◆しかし【本能寺の変】後の混乱は光秀の想像を越えて行きます
光秀の謀反に反発する動きが続発します


信長の息子が光秀の娘婿、津田信澄を襲撃して津田信澄は非業の死を遂げます
この時幼子を抱えた光秀の娘も行方不明になりました


津田信澄は天下の謀反人の一族としてくびをさらされてしまいます
更に光秀を驚かせる出来事が起こりました


殿!西国よりの知らせが参りました
羽柴の軍勢が姫路へと引き返しつつあるとのよし
なに?それは誠か?


中国地方にいた羽柴秀吉が毛利軍との講話を結ぶ事に成功したのです
秀吉は光秀打倒を目指して進軍開始


◆更に各地の武将に
天正10年6月5日の秀吉の書状
上様(信長)殿様(子の信忠)は無事に脱出された


信長が生きていると嘘の情報を流し反光秀の勢力を束ねようとします
この時呼びかけた先の一つが玉子のいる細川家でした
信長に重用されていた細川家は秀吉に呼応し忠興の妻の父である秀光への協力を拒絶しました



◆その結果悲劇に陥ったのが光秀の娘、玉子でした
そなたの父は、わが主君の敵、無道の者の娘をそのまま妻にしておく事はできぬ
玉子は突如、夫の忠興から離縁を告げられ、幼い子供たちと引き離される事になりました


京都府京丹後市水土野、夫に縁を切られた玉子は山深い里に幽閉されます
幸せな暮らしから突き落とされた玉子

父にあてた手紙

腹黒い父上のせいで
私は夫の忠興様に捨てられ
心細いありさまに成ち果てました

京都橘大学名誉教授:田端泰子さんのコメント
父光秀が細川家と敵対するような又、結婚を後押ししてくれた信長と対立するような立場に立

ったのかということで凄く大きな疑問の渦の中に玉子はあったのではないかと思うので・・・

頼りにしていた細川家の離反は光秀にとって最大の誤算でした


●なおも細川家に食い下がろうとする光秀の手紙が残っています
【明智光秀自筆覚書】
もはや忠興殿に出陣してくれとは申しません
せめて重臣だけでも送ってくださいませんか

私はこの戦いが終わったら
天下を十五郎と忠興殿に譲って
隠居しようと思っております

それは天下を細川家に譲ってまで援軍を乞うという低姿勢な内容の手紙でした



この日ライバルの秀吉は中国地方から予想を超える速さで帰還
姫路城で光秀打倒の準備を整え京の都へ迫ろうとしていました


光秀は大名たちからの協力を十分に取り付けられないまま
秀吉軍との決戦に望まざるおえなくなりました


嫡男十五郎を坂本城に残して秀吉との戦いに出陣しました
十五郎よ父は必ず帰って参る留守を頼んだぞ
お任せくだりませ父上

本能寺の変から8日目
これが跡取り十五郎との今生の別れとなりました

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◆秀吉VS光秀

山崎の戦い

京都と大阪との境にある標高270mの山・天王山
この山の麓で行われます

天王山の北で光秀が築いた陣地跡が発掘されました
【長岡京市教育委員会の発掘調査2011年】
なんと光秀の本陣が置かれていたのは千年以上前に造られた古墳の上
天王山の周囲は平野で辺りを一望できるのは古墳のみ
光秀の最後の秘策でした

古墳の脇からは秀吉からの進軍を巧みに阻む為の大工事の跡も見つかっています
自らの英知の決戦に望む百戦錬磨の知将光秀


●最新の発掘が明かす明智光秀最後の戦いです
明智光秀最後の戦い一族の未来を賭けて

天正10年6月10日
光秀は1万3千の軍兵を率いて天王山の麓、山崎に到着します

秀吉軍はまだ兵庫にいて光秀にはまだ十分な防衛体制を組む時間がありました
この時光秀が目を付けのが山崎の恵解山古墳(いけのやまこふん)
長岡京市による近年の発掘調査で光秀の防衛策の実像が明らかになってきました

●調査の結果、元々森だった前方後円墳の頂上部分が光秀の時代に2段に削られ平坦にされた

と分かりました

其の平地を廓のように改造し周囲をくまなく一望できる本陣などを上に備えたと考えられます
更に前方部には2m程の段差が、敵兵の侵入を防いだ工夫だと思われます
古墳の全長は128m
本陣部分は8メートル(3階建ての櫓に相当します)
僅かな時間で小さな城に等しい陣地を手に入れたのでした


古墳のすぐ側からは深さ2m幅5mの堀も発見されました
放置された作業用の工具も出土し、秀光の命により突貫工事でつくられた事が伺わせられます

古墳の右手にそびえるのは天王山、左手には淀川と湿地帯
軍勢が侵入できるのはその間の僅か
数百mの平地のみ天然の要害と周到な工事によって光秀はこれ以上ない布陣で秀吉に臨んでい

ました

多分ここを選ばれたのは見晴らしが非情に良い一望に見渡す事ができる、さらに当時つめてお

りました勝龍寺城というお城がすぐ背後にあって、退く(ひく)にも便利であるということも

あった気が致します


●歴戦で培った知恵と経験を活かし何重もの備えを施していた光秀
兵力はおよそ1万6千
秀吉は1万
十分な勝算があったはずです

一方そのころ秀吉は播磨の国を立ち山崎目指して進軍中でした
地の利を光秀に奪われ数も劣勢
しかし秀吉には切り札があります

●大義名分がありました
秀吉は信長の敵討ちの為に力を貸して欲しいと行く先々の武将に猛アピールします

この秀吉、光秀を相手に
亡き信長様の弔い合戦をつかまつるにあたり
討ち死には覚悟の上でござる
ただひとつ願うは亡き殿のご無念を晴らす事のみにござる

自分は光秀さえ倒せれば討ち死にしても構わない
秀吉の捨て身の訴えは多くの武将の心を動かしていきました

【大阪天守閣 研究主計】北川央さん
秀吉の天下取りというか織田政権を簒奪して自らの政権を築くという野望を完全にもっていた
と思うがそうのは絶対にひた隠しにしている
自分は大恩ある主君織田信長の敵打ちをするんだとこれを声高に叫ぶ事で多くの人立ちを味方

につけて行った
見事な戦略ではなかったかと思います

山崎へ向かううちに近畿の武将の数を増やしていく


●一方謀反人である智光秀には、思わぬ誤算が続きます
玉子の嫁ぎ先である細川家が秀吉についたのを加え
当初は味方だったはずの大和の国の武将も光秀から離反しました
光秀直属の丹波の兵にも陣を離れる者が出始めました
陣を離れる者が出てくる
山崎の戦いの直前脱落が相次い明智光秀軍

対する秀吉の陣は最初の3倍にふくらんでいました3万以上
もはや引くことはできませんでしたが光秀には万全の備えをほどこした砦がありました


山崎の戦いの火蓋が切られます


合戦は天王山のある西側から始まりました
光秀は的確な指揮で秀吉軍を撃退します


古墳からは、当時の激戦を示す物がみつかっています
火縄銃が多数でてきました
これは西側からこの古墳に向かって鉄砲玉が打ち込まれたという証拠になります
古墳の斜面に当たり衝撃でひしゃげた弾丸、堅固な砦が功を奏し秀吉軍の猛攻を阻んでいたのが伺えます


●この後も、明智光秀の予想を遥かに超える事が起こります
進軍して来ないはずの湿地帯からも敵がものともせず敵が突撃してきたのです


弔い合戦に燃える秀吉軍は狙い打ちされる危険をものともせず
突進を続けます
反逆者への怒りで一丸となった猛攻を明智光秀軍は支え切れませんでした


ついに光秀は勝竜寺城に退却、見方の多くが討ち死にし、もはや再起は不可能か・・
そう思われた時、光秀は謎の行動にでました、青龍寺城の北100mにある神足神社
この神社には高さ4mほどの青龍寺城の土塁の跡が残っています

この夜、光秀は突如この土塁を乗り越え青龍寺城からの脱出を図ったのです
供はほんの僅か、見つかれば惨めな死が待っているのに一体なぜ?
その進路も京都に向かうと思いきや東に進路を取り洛中を迂回して再び北へ、光秀の脳裏にあったと思われるのは坂本城にいた十五郎の存在一族と共に立てこもっていました


心の声・・・戦は時の運まだまだ分からん
たとえ敗れるとしても最後は我が子と共に
光秀は最後の力を振り絞り一晩で20km近くの道のりを踏破、山一つ超えれば近江という所まで辿り着きます


明日迄にはご城下に入れます十五郎の為に秀吉に一泡ふかせてやらねばならぬからのう
しかし・・・・
この最後の願いが叶う事はありませんでした


この夜、明智光秀 落武者狩りに遭い絶命

一族の未来を賭けて立った老将光秀の反乱はこうして幕を閉じました
↓ところが、この時、明智光秀は本当に亡くなったのか?不思議な伝説をお読みください
本能寺の変の後・明智光秀は生き延び家康に付き南光坊天海として参戦




明智光秀の死後、一族には悲惨な運命が待っていました
光秀の居城坂本城には明智一族が集結していましたが
秀吉軍の包囲を受けた明智一族は坂本城で自害、十五郎も命を落とす


しかし丹後の山中に幽閉されていた玉子は生き残りました
謀反人の娘としてそのまま生涯を終えるかと思われた玉子


この時玉子を救ったのが、夫の細川忠興でした
玉子を心から愛していた忠興は秀吉に赦免を嘆願し許されます
幽閉を解かれた後、玉子は忠興と復縁して6人の子を授かります
子孫は今日まで続いています


◆では最後に一つ
天下の謀反人明智光秀は後世にどのように語り継がれていったのでしょうか

本能寺の変から100年

【明智光秀軍記】
光秀を懸命に主君を支える武将として描きました
鉄砲の達人として並み居る敵を打倒し


ある時は築城の名人として安土城の設計を指南する大活躍
なのに信長からは何度も織田信長から理不尽な扱いを受け苦悩します


【明智光秀軍記】の作者は光秀を非道の謀反人とはみなしませんでした
信長を殺したのは信長自身であって明智光秀ではない
本能寺の変は思い上がった信長に天が下した裁き天罰だと記していたのです



光秀ゆかりの地滋賀県大津坂本
明智光秀がかつて訪れた西教寺では毎年6月14日の命日に光秀を偲ぶ法要が行われる

焼き打ちをした事を悔い町の復興に力を尽くした光秀
時が立つに連れその功績がたたえられ心から慕われるようになって行きました


◆この坂本に光秀が読んだ歌が伝わっています

われなれで 誰かばうえむ
ひとつ松 こころしてふけ
志賀の浦かぜ



他ならぬ私が植えた松の木
琵琶湖の風よ乱暴に吹かないで

戦国最大の反逆者、明智光秀
その心には風に揺れる一本の松さえ思いやる
優しい眼差しを秘めていました

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