テレビドラマふぁん

真田丸 矢沢頼綱(やざわよりつな)と矢沢三十郎は親子で真田に仕えた忠臣

矢沢頼綱(やざわよりつな)は真田昌幸の叔父にあたります

矢沢頼綱の息子が矢沢三十郎


1582年3月に織田信長の武田侵攻により武田勝頼が自害、矢沢頼綱は独立勢力となった真田家の重臣となります

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沼田領安堵問題で家康が沼田領を真田のものとする約束を反故、北条に沼田城を明け渡すように要請しますが


沼田城主の矢沢頼綱が猛反対、北条軍の沼田城攻撃が始まりますが


矢沢頼綱は少ない手勢で沼田城を守り抜きます、名将といえるでしょう


真田昌幸が上杉と手を結ぶために息子の信繁を人質として越後に送ります


上杉と真田が手を結び、徳川と真田は絶縁状態となりました


そして徳川が上田攻めを開始、徳川の第一次上田合戦に呼応して北条氏邦も沼田城に攻め寄せてきました


上田城は徳川勢と戦いの最中で援軍は望めない状態

矢沢頼綱は北条軍を迎え撃つため、沼田の中心に通じる木戸口付近に大量の薪を集めて
北条の大軍がさしかかったところを、沼田城内から応援に呼んだ農民たちに松明を持たせ


北条の軍勢の中に松明を投げ込ませた、火は薪に燃え移り北条兵はやけどを負い、馬が暴れるなど僅かな手勢で北条を撤退させました


このように豊臣秀吉の裁定で沼田城を明け渡すことになるまで北条軍からの攻撃から沼田城を守りぬきました


1985年に真田信繁が越後の上杉景勝のところに人質として赴任しました

この時、息子の矢沢三十郎(頼康)も供として越後に赴いています

この年に頼康と連名で署名した文書が最後で、それ以降は引退して家督を譲ったと推定されています

矢沢 頼綱が死去したのは1597年5月7日 享年80

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