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真田丸「三河武士の鑑」鳥居元忠と「表裏比興の者」真田昌幸は室賀事件から因縁の相手

鳥居元忠は史実では室賀正武と共に真田昌幸の暗殺を共謀した人物、第一次上田合戦の総大将で真田昌幸に煮え湯を飲まされます

◆鳥居元忠の逸話
鳥居元忠は家康の絶対の忠臣であったと言われています、幼少のころから仕えて多くの功績が挙げていましたが感状をもらったことが無かったため、1591年に家康が感状を与えようとしましたが


鳥居元忠は感状などほかの主君に仕えるときに役立つもので、家康しか仕える主君を考えていないに自分には無用であると感状を受け取りませんでした

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高天神城攻めのときに、味方の兵糧の輸送が遅れて徳川軍は飢えに苦しみました


そこで家臣が周辺で略奪してきた飯を鳥居元忠に食てべさせようとしましたが未だ食事が届かず将兵が飢えるときに労苦を共にした進まずば何をもって功をなすことができようか


といって飯を投げ捨てました、これを知った部下たちは感激して飢えを我慢して節度を保ったそうです


生涯家康に仕えた鳥居元忠から見ると、たびたび主君を変えた真田昌幸はどう映ったのでしょうか


◆鳥居元忠の略歴
誕生は1539年 松平氏の家臣、鳥居忠吉の三男として生まれる


徳川家康が「竹千代」と呼ばれ今川氏の人質だったころから側近として仕えました


鳥居元忠は徳川家康の3歳年上で元忠が13歳のときには家康に仕えていたと寛政重修諸家譜の記録にあります

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「加沢記」では家康の密名を帯びた鳥居元忠が真田昌幸の暗殺を持ちかけ、室賀正武が承諾しました

室賀正武の暗殺計画が真田丸では囲碁を打ち返り討ちに史実は?


1585年の真田昌幸を討伐する上田合戦では兵7000を率いて上田城を攻撃しますが、大きな損害を受けて撃退されました


1600年の関ヶ原の合戦の直前、家康は会津の上杉景勝の討伐のため挙兵します、伏見城は鳥居元忠ら3000名ほどの兵を残すに留め徳川軍の主力は会津攻めに向かいました


伏見城で家康は元忠は酒を酌み交わし「手勢不足で汝には苦労をかける」と家康が述べると


「殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である
もし大阪方の大軍が包囲したときは討ち死にするほか無いから
一人でも多くの家臣を城からつれて出て欲しい」

と元忠は答えたと言います


出陣で家康の不在を好機と見て石田三成は反家康派の大名を糾合して挙兵し4万の大軍を持って伏見城を包囲しました


元忠は内藤家長、松平家忠、松平近正らと1800名の兵力で立てこもり三成が降伏勧告のため派遣した使者も切り捨て戦い続け13日間の戦闘のすえ討ち死にしました、享年62


鳥居元忠の忠節は「三河武士の鑑」と称されました、家康は忠臣の死を悲しみ、その功績をたたえ嫡男の忠政は山形藩24万石に昇格しました

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