テレビドラマふぁん

真田丸 新井浩文さん演じる加藤清正公の怒り「井戸に近づくな」


加藤清正は井戸堀名人で知られた人ですが、真田丸の世界では清正と一緒に井戸の前に立つのは命知らず、清正を怒らせちゃった人が何人もお気の毒なことに「井戸に近づくべからず」です


ところが真田丸25話【別離】で加藤清正公が登板!清正から指名された石田三成が一緒に井戸パワーを発揮することに
25話ネタバレ【別離】祈れ!加藤清正が井戸の前で石田三成を待つ



16話真田丸【表裏】はサスペンス劇場か?犯人は現場に戻るの法則発動、茶々に近づくな!後の熊本の名君、加藤清正公がブラックな16話でした


加藤清正と出浦昌相の以外な共通点とは?
何故か立花権三(たちばなごんざ)の姿が見えません
大阪城に残された信繁が馬廻衆ってなぜに?

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加藤清正のやっている事といったら、影で必殺仕事人やった出浦昌相とやってることはたいして変わらないのに信繁が襲われるかもって思うだけですごく怖いです


なぜか立花権三が井戸に落ちて謎の変死したという、欠員補充のため秀吉から信繁が馬廻衆に任命されたのでした
馬廻衆の頭目の平野長泰がかなりの情報通です、茶々に気に入られた男が変死するのはこれで3人目とは・・・ホラーのようです


「みんな殿下の怒りに触れてあの世行き」と平野長泰は語りました、そして井戸に落としたのはおそらく清正だろうとの見立てです
場所は違えど加藤清正の井戸ネタは恐ろしいです
加藤清正の井戸にまつわる逸話、熊本城と明治神宮のパワースポット


信繁が井戸を覗いていると運悪く加藤清正がやってきます
井戸を見ている・・・清正はピンと来たのか信繁の胸ぐらを掴みます
信繁は間接技で一度は逆転しましたが、強引な清正の力技で信繁は抱え上げられ豊臣秀長が通りかかって止めなければ井戸に落とされてたかも・・・・
怖いこわい


加藤清正は熊本を治めた名君です
先日の熊本震度7では瓦が落ちてしまった熊本城が連日テレビ放送されていました
熊本城は加藤清正がいたお城なんです
賤ヶ岳の戦の七本槍の一人、隅本の地名を熊本に改名したのは加藤清正、熊本の方が勇ましかろう熊本の善政は清正公のなさったこと


加藤清正の略歴
賤ヶ岳の戦の七本槍の一人として活躍して秀吉から3000石の所領を与えられました
1585年に秀吉が関白に就任すると、清正は従五位下・主計頭に叙任します
14話で酔っ払った清正が秀吉のことを関白は似合わない、「返上しちまえばいい」と愚痴をこぼしました


それを聞いた三成に「だったら先に返上しろ、従五位下主計頭」と言われ「返したくない、気に入っている」と言い訳して言ってることがおかしいと三成に突っ込まれていましたっけ


1586年に秀吉が九州平定を行い、肥後国領主の佐々成政が失政で改易すると、加藤清正が熊本領主となり肥後北半国19万石を与えられました
肥後による治世は良好で治水治山、新田開発に力を入れて田麦を特産品にして南蛮貿易の決済にあて商業政策で優れた手腕を発揮しますが朝鮮半島への出兵から領国経営にも暗い影を落としました

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文禄元年(1592年)から文禄・慶長の役では朝鮮出兵して7年間戦います
真田丸で加藤清正を演じる新井浩文さん
在日三世の方ですが、2005年に韓国の国籍に変更しています
1979年生まれ
出身地は青森県弘前市
身長は181cm
血液型はA型です


加藤清正同様イメージのような強面ですがトークが自然でファンを大事にすると評判です
イケメンなのにツイッターが面白いと女の子の間で評判になっていました
13歳の時は普通につらら食べてたとか・・・ローカルな話題ですが面白いです

真田丸で文禄・慶長の役がどのように描かれるか気になるところです、秀吉の死去によって朝鮮出兵は中止となり、清正は日本へ帰国しました


1598年に秀吉が死去すると清正は徳川家康に接近して1599年に前田利家が死去すると、浅野幸長や福島正則とともに石田三成暗殺未遂事件を起こし、これに失敗したためさらに家康に接近を強めました


島津家の家臣伊集院氏が庄内の乱を起こし清正が反乱を起こした伊集院を支援していたことが発覚して家康の怒りを買い、加藤清正は上杉討伐に参加を許されず国元に留まるように家康から命じられました


関ヶ原の戦いで清正が領国の肥後にいたのは家康から謹慎を命じられこうした事情から関ヶ原の戦いでは清正が西軍につくことも想定され


毛利輝元が説得工作を行いましたが清正の家臣が会津征伐に出陣する家康の配下におり、石田三成の挙兵を知った家康が清正の家臣を肥後に返して清正の東軍入りを認めました
家臣が帰国した8月から黒田軍とともに出陣して小西行長の諸城を破り九州の西軍勢力次々破りました


戦後に小西旧領を与えられ52万石の大名となりました、熊本藩内では熊本城の改築と支城の廃止が進み、熊本城と7つの支城に整理が進みました
晩年は豊臣家への恩義と徳川政権下での自家の存続に悩みました


1611年に二条城で豊臣秀頼と徳川家康の会見を成功させてこれで豊臣家は安泰と思われましたが二条城からの帰途、熊本に戻る船の中で発病し、熊本城で亡くなりました
そして豊臣家は加藤清正の死去4年後に大坂夏の陣で破れて滅びました

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